さて、光ファイバが行き渡れば当然ながら古くて容量の小さなカッパーケーブルは不要になるから全部引っこ抜いちまえ、と言う論調があるのはご存知のとおりですが、私は(あくまで個人の意見として、ですが)カッパーケーブル全廃、あるいは部分的廃止にも賛成しかねるところでして、その辺について、論じさせていただきたいと思います。
カッパーケーブル、すなわち銅線ですが、これは、電話黎明期から通信線の主役として活躍していて、今でも固定電話の大半はまだ何らかの銅線を使った通信を使っています。まだ、データに関してもADSLのシェアは結構高いレベルを保っていて、これらがすべて光に置き換わるにはまだ相当の年数がかかることが予想されます。
その光への置き換えが達成された暁には、銅線の廃止と言う選択肢も見えてくるのでしょうが、しかし、そこには、光ファイバと銅線の明らかな「機能の違い」を無視した議論しかないように思うのです。
重要なのは「性能」ではなく「機能」、パフォーマンスではなくファンクションです。
たとえば、音楽テープがCDに取って代わられる、ということが起こる事が一部で予想されながらも、結果としては音楽テープとCDは共存し、音楽テープを置き換えたのはデジタルオーディオ装置のメモリやHDDでした。当初は、「音楽テープより音もよく容量も大きいCDが音楽テープを駆逐しない理由が無い」とと言う論調さえあったのに、そうならなかったのは、そういった議論が性能比較に終始し機能差を無視したからでした。つまり、「録音可能」と言うCDには無い機能があったからこそ、当分音楽テープは共存していったわけです。
さて、光ファイバと銅線についてもこれがいえます。この二つは、全く別の機能を持った装置であり、前提や応用が全く異なるもの、と言う点を無視した「銅線全廃論」にはどうしても待ったをかけたいわけです。
光ファイバの「機能」は、「千数百ナノメートルの波長の電磁波を低損失で伝送する」だけです。波長域は多少異なることもありますが、基本的に「電磁波を伝送する」と言う以上の機能は持っていません。
一方、銅線は、「電圧波形を伝送する」と「電力を伝送する」と言う二つの機能を持っています。前者が情報の伝送に使われ、後者は電力の伝送に使われます。しかし、同じ銅線である限り、この両方の機能を常に持ちます。電力線を通信に応用しようと言う「電力線通信」がいろんなところで実用化され、家庭で導入しているという読者の方も多いかと思いますが、その逆のことが、つまり「通信用の銅線を電力の伝送につかう」と言うことが、実はかなりの割合の家庭で普通に使われていることをご存知でしょうか。
銅線を使ったアナログ電話を使っている家庭では、これが普通に行われています。アナログ電話では、常に電話局から電力が供給されているのです。最近は多機能になったため電源をコンセントから採る電話も増えていますが、少し前の電話は、電話線を接続するだけで動作していたことを覚えている人も多いかと思います。これは、電話局から通信用電話線を通して供給されていた電力で電話機が動作していた、と言うことなんです。
このように、「情報を伝えることに特化した光ファイバ」と、「情報伝達と電力輸送の両方に使える銅線」、全く異なる機能性を備えた二つのものを比べると言うことが行われているわけで、個人的には、その二つは「比較するもの」ではなく「相補するもの」だと思うんですね。
私は、光ファイバはあくまで「高度な文化的生活を支えるオプショナル・インフラ」であり、銅線は「最低限の文化的生活を支えるマンダトリ・インフラ」だと考えています。
通信が正常に動作するには、二つの前提がそろわなければなりません。「通信媒体」と「電力」です。光ファイバは「通信媒体」を提供できますが「電力」を提供できません。一方、銅線は一つでその両方を一度に提供できます。だから、光ファイバを引っ張っても通信は開始できませんが、銅線があればそれ単体で通信が成立するわけです。
と言うと、各家庭にくまなく張り巡らされた電力網を無視するのか、と言う話も出てきます。当然、光ファイバはその「電力網」を当てにしたシステムです。光ファイバを設置する以上電力が供給されていないということはありえません。
しかし、通信の継続性、責任の一貫性、と言う観点で見るとどうでしょうか。つまり、電力が落ちるような大災害時です。
電力が落ちれば光ファイバは能力を失います。通信は完全に遮断です。また、光ファイバ自体が代替の電力を家庭に供給できるわけではありません。言ってみれば、「通信線」「電力線」と言う2系統のうち片系が落ちただけで確実に通信が落ちてしまうということになるのです。そして、重要なことですが、「通信会社が光ファイバサービス継続性全体を責任を持って管轄できない」と言う問題があるわけです。
銅線であれば、通信会社が情報の疎通を担保し、必要であれば銅線に電力を供給して通信のための電力を補填します。もちろん通信会社も電力会社から電力供給を受けていますが、通信会社は自社の責任と独自の方法で電力供給を継続する努力をすることが出来ます。電力ルートの冗長化や非常発電装置などです。そのため、重要な拠点などに特に手厚く電力供給を確保するなど、通信と電力を一貫して管理できます。光ファイバでは、電力供給は完全に電力会社の責任範疇であるため、努力のしようもありませんし、どこか特別な重視拠点を手厚く、などとしたければ、会社間の面倒な調整が必要になり、復旧に時間がかかることは間違いありません。
通信会社が通信会社自身の責任で通信の継続を保つ努力をするためには、やはり銅線は必要であると考えるわけです。通信会社だけが努力すれば銅線の通信は復旧可能であり、であれば、一刻を争う救急連絡が多発する災害発生時を想定すれば、それは光ファイバでは代替できない役割であると思うわけです。
幸い、銅線は既にほとんどの世帯に張り巡らされているため、最低限の生活を守るための基礎は出来ていると思うのですが、やはりこれは最低限のシステムとして保持し続けなければならないと思うのです。コストは大変なものになるとは思うのですが、それこそ、NTT東西に課された責任と考えます。
銅線の全廃とは、つまり、「通信は電力よりも重要度の低いインフラ」と改めて定義しなおすということと等価であると考えます。従来は、通信事業者の自らの責任で一貫したインフラとして管理・維持されていたものを、「需要者が電力を準備することを前提」とし、つまり、不通の事態に「需要者が電力を用意してくれないから」と言う言い訳を許す一ランク低いインフラと再定義するものです。電力や交通などの社会インフラではそんな言い訳は許されません。
私自身が通信に対してあまりに高尚なものを期待しすぎているきらいがあるのは百も承知ですが、通信業界に関わる身にあっては、やはり「通信とはこうあってほしい」という理想を語らずにはいられず、こうやってまとめてみました。いろんな考えがあるとは思いますが、こんな考えもありますよ、と言うことで。それでは。
銅線なら停電でも安心、理屈の上では確かにそうなんですが、現実問題本当に効果があるんでしょうか。
例えば電話機が停電対応でなければ銅線でも電話はできません。一方で、停電対応電話ならば光でんわでも大丈夫です。
また、そもそも災害時は電話は規制でほとんどつながりませんし、一般人はむしろ電話するな、ですよね。それ以前に回線が物理的に損傷しているケースも多いでしょうし、東日本大震災の場合NTT局舎自体が機能していないケースも多かったはずです。
本当に銅線って役に立つんですか?
ここは酷い大本事件ですね…
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